ラオス

中国にお別れをし、約1Kmの緩衝地帯をピックアップトラックで移動、スムーズにイミグレの手続きを終えラオスに入った。
 国境の村ボーテンはアクビの音が聞こえる程に静まりかえっていた。見て回るのに10分もかからない。驚いたことにこんな所にも免税店があった。商品にはホコリが積もっていた。
 運よく中国側からやってきたミニバスに乗れて、ルアンナムタへ向かった。何の運が良かったのかというと、このラインは普通はピックアップトラックの荷台に乗らねばならないのが、バスに乗れたから。それと出発時間というものがないなかで1時間も待たずに出発できた。サチコさんはウドンサイへ向かった。
▲(中国/ラオス国境、ラオス側、たまたま一緒の旅行者)

 ルアンナムタは空港もある大きな町。ここで車を乗り換え、目的地の、少数民族が多く住んでいる町ムアンシンへ向かった。乗客のほとんどが欧米人で、チョット、ガクっときた。
 国境から合計約6~7時間かかってムアンシンに着いた。道路は中国から来ると大分悪くなる。一度舗装された後はあるのだがほとんど補修されていないので車の中でジャンピングを楽しまねばならない。一部には原生林も残っており、緑は深く、景色はよかった。

 

○ムアンシン
 ムアンシンは町というより村と言ったほうがピッタリくる。中国との国境まで16kmというロケーションだ。ただしこの国境は外国人は通過できない。自転車を借り国境へ向かったが、ガタガタ道にまいり断念した。
 村の朝市は見応えがある。どこからやってくるのか、朝早くからにぎやかだ。モン族、アカ族、ヤオ族、タイ族など彼女たちの服はとてもカラフルで、ボクら旅行者にはとても魅力的。布袋を肩から下げている人もいるが、竹で編んだカゴを背負っている人も多い。ほとんどの人が色とりどりの巻きスカートをはき、足はゴム草履、頭を銀細工や布などでデコレイトしている人もいる。
 夕方になると川で水あびをする人が多くなる、子どもたちはスッポンポンで友だちと一緒に遊ぶ。エサを求め黒ブタが子連れで歩いている。いろいろな鶏類も家々を徘徊する。
 日中は電気の来ない村だが、午後6~9時は、ライトが灯り、その間にボクらは食事を済ませる。TVのある家には人だかりができ、路上から窓越しに観ている。この時期、夜はけっこう冷えるのに靴下も履かず寒くないのかと思ってしまうが、皆、かぶりつき。TVの魅力は絶大だ。
 9時以降は電気が止まるので、ロウソクの世界になる。闇は深く、星が元気で、自然の光りの世界。車もバイクもなく、村は静けさに包まれる。カヤを張ってベットに入ると、経済に支配された東京の生活が思い出されてくる。
 この町でジーホンで会ったキモノさんと三好くんに再会。三好くんは7年間仕事一筋で、残業は1月100時間を越えていたという。彼は旅行を「こんな天国のような」と言っていた。この快感を味わった彼は、もう立ち直れないかもしれない。


 

 

○ ウドンサイへ 
 
数日後、ムアンシンから再び2時間半かけてルアンナムタに戻り、そこで乗り換えウドンサイへ向かった。このトラックは既に荷物をいっぱい積んでいて、乗ろうかどうか相当迷ったが、次の車がいつ来るのか定かでないため乗らざるをえなかったが、ひどい車だった。
 荷台に座るスペースがほとんどなく、足の置き場もない。
 以前、スリランカのシギリアでトヨタのハイエースに詰め込まれたことがあった。身動きなぞ全くできず、人数を数えてみると30数人乗っていたことがあったが、今回も哀れだった。一番後部でお尻が半分はみ出した状態、しかも車が巻き上げる埃がまともにかかり、リュックともども全身埃だらけ、ただ落とされないように車にしがみつきそのまま5時間。それでもウドンサイに着いた。途中の景色は良かったがきつい移動だった。後で知ったがこのラインも中国のミニバスが走っていて運が良ければそれに乗れたかもしれなかった。
 早速、あったかいおふろに入りたいところだが、そうはいかないところがバジェット旅行者。宿には水シャワーしかなく、既に夕方で寒く浴びる気がしない。それで沸かしたお湯をバケツにいれてもらい体をふいた。ああ快感。モン族の新年とかで道すがらボールで遊んでいる着飾った女性たちを多く見かけたが、トラックでの移動は好きなところに止まれないのが少し残念。
ウドンサイも何もない。あえていうなら、小高い丘の上のストウーパから見る周辺のゆったりした風景。マーケットも大きかったがムアンシンのほうが断然おもしろい。ネズミやもぐらのような小動物、こうもりなどが売られていた。

○見て見ぬ振りの米国政府
 
この町で国連ボランテイアをしているというエリさんを訪ねた。織物を目指す人たちに、織り方やこの地方のデザインなどを教えている。材料はこの辺りで採れる綿を使い、草木染めで仕上げる。ウドンサイには小さいながらSHOPもできて、今後ビエンチャンなどの都市でもお店を開く予定とか。小さい努力が大きな成果を産むことだろう。
 夜、一緒に食事をした。
「ラオスには多くの不発弾が、全土に渡って処理されずに残っていて、毎年多くの山岳少数民族が亡くなっている」と。ベトナムでも同じことを聞いた。
 米軍の爆弾投下が終わった後の1973~1996年の間にラオスでは10649人が事故に会いその約半数が死亡(UXO〈不発弾〉による死者1973~99年の間で、5633人が死亡。UXO処理の為に、MAG〈イギリス〉、GG〈ドイツ〉、HI〈スウェーデン〉などが入っている。ちなみに米国軍人のラオスでの行方不明者は456人)今でも「1年間に200人以上の人が死傷しています」と。まさに無駄死。米国も問題だが日本もそれを支えたのだ。「国連がウドンサイに居を構えている理由のひとつは、この辺りに不発弾が少ないから」だそうだ。
 米国が投下した爆弾の約30%は不発弾だったというから驚き。
「米国はその処理にほとんどお金を出さず、むしろ日本の方が多く出しています」
「ただし日本は人を出さないのですが」
「最近も不発弾処理の人が亡くなった」
危険な、気が遠くなる作業が今後も続くのだろう。
 カンボジアには夥しい地雷があり、そして、ベトナム、ラオスと、一体インドシナにはどれほどの火薬が眠っているのだろうか。
 政治の問題はあるにしても、米国などでは軍需産業に携わっている人も多い。日々、兵器や弾薬を造っているわけで、仕事なら何をしてもいいのだろうか、与えられた仕事をただこなす人にも罪はないとはいえない。使われるから、作るともいえるが、ボクには作るから使われるように思える。


 

○モン族の悲劇


 
資料によれば、ベトナム戦争で亡くなったモン族は60万人の人口の3分の1にあたる、20数万人(年数は不明)と言われ、その数はベトナム戦争時の米軍死亡者の4倍弱という。驚く数字だ。
 ホーチミンルートはその約9割がラオス国内を通っており「ラオスで戦争はない」と、途中まで言っていた米国政府の公式発言とは裏腹に、ラオス王国軍と米国が作った“モン特殊部隊”それに対する、パテトラオ軍とベトナム軍の闘いが繰り広げられた。特にモン特殊部隊は悲惨を極めたという。現在モン族は、米国に約16万人(6・3%が市民権取得。約3割が米国生まれ)暮らし、フランスには2万人弱暮らしているという(新しい移民規制法ができて、外国人排斥の運動が徐々に盛り上がっている)
 モン特殊部隊の前身はフランスのモン部隊“マキ”フランスはラオス北部のモン族やベトナム北部のタイ族などの村長を説得し、サイゴン近くのサンジャク岬で軍事訓練“モン・マキ”“タイ・マキ”を創設(アヘンをその費用にあてたという)1946年には約4万人の部隊となり、フランス軍と、インドシナ共産党指導下の“べトミン”との闘いに参加。気になるのは、仏軍といっても、その主体はフランス植民地のセネガル人やマリ人だったということ。
 1954年、仏軍の最終決戦地“ディエンビエンフー”陥落後も、放棄された“マキ”は闘い続けたという(続けざるをえなかった。べトミンは彼らや家族を追いかけたというから)フランスは1955年に撤退した(ジュネーブ協定)
“国家とは自国の国民と財産を守る”とよくいわれるが、フランスも米国もその為に自国民でない現地民を使うことに努めたという。「戦死したら、その場に遺棄していい安上がりの存在」といいながら現地人主義を採用したらしい。日本の戦争も同じだが、現地の人々が米軍とともに闘ったとしても、ベトナム戦争戦死者の墓碑には名前は載っていないという。
 モン族の集め方は、ベトナム兵が迫っていることと、お金(月30ドルの給料)。それと、お米、塩、黒ブタ、薬品などを与え、その見返りに、米国軍は仏軍以上にケシ栽培をすすめ、100万ドルの利益をあげていたそうだ。栽培量は1971年には70~100トンに達したそうだ
 モンの軍事訓練の指揮は沖縄などから派遣された“白星隊”があたり1957年、南タイのホワヒンで行われた。その後、タイのウドン基地などで本格的に軍事訓練を始め“モン特殊部隊”が作られた。この部隊は給料も含め、ラオス王国軍とは別に、米国軍から武器などと共にも直接支給されていたそうだ。
 米国軍が去った後も、パテトラオ軍とベトナム軍は執拗にモン特殊部隊とその家族を追い続け、なかには、支配下においた王国軍を使って掃討作戦をやったという。
 ベトナム政府とアメリカ政府の代理戦争地ラオスに残された物は、多くの難民とともに、推定150~200トンのケシと不発弾(UXO)不発弾の犠牲者の3割弱は戦争を知らない世代だという。ラオス政府は国連などの支援でやっと1996年“UXO・LAO”を設置、処理訓練センターを開いた。旅行をしていると、その車や探知機を持った人に出会うのもそのため。
 大国の世界戦略は人々を平気で振り回す。
 一方、ラオス国内で革命に反対した人々は、やはりキャンプおくりにされたという。「キャンプから帰って働かなくなった」と、父がキャンプに行っていた家族の一人が言っていたのが印象的だった。ここはのどかな国に見える。でも、暗い過去を持ち、未だに悩み苦しみ続けている人は多いのかも知れない。
 インドシナの過去は現在にとても多くの問題を残していた。

 エリさんと、約1年前までブータンで国連ボランティアをしていた彼女のお連れあいと食事にいこうと待ち合わせ場所に行くと、また三好くんがきた。よく現れるんだこの人は。着いたばかりということでまだ荷物を背負っていた。手にマッチとロウソクを持ってあやしいいでたち。ここには電気がきているのに。5人で食事をした、楽しかった。日本で知らない人とこんな風に食事することはまずない。


翌日、ウドンサイを離れ、古都ルアンパパンへ向かった。ピックアップトラックで約5時間。道路の半分は舗装されていて楽だったし、服も埃をかぶらずにすんだ。
 ルアンパパンは王政時代、都が置かれていたところで、いたるところに寺院があり、落ち着いた佇まい。乾季で水量は少ないものの、黄土色をしたメコン川が町を流れていて、気持ちがなごむ、中国のジーホン以来の再会だ。
 このメコン川を利用しての川下り(上り)は、道路が不整備なこともあって、地元の人も旅行者もよく利用する。こんな場所だから長期滞在の旅行者も多い。さらにクリスマスを控え、休暇で欧米人旅行者がドット押し寄せ、ため息がでるほど多い。
 旅行は言葉の問題があるので、一口に欧米人といっても、ひょっとして、英語圏の人か、かつての宗主国フランス人が多いのかも知れない。


い白人系欧米人           

 


 旅行者の多い町にはツーリスト用レストランができる。ヨーロッパ風の食事や音楽が特徴だ。こういうお店、ボクは苦手。食べ物が苦手なのではなく雰囲気が合わないのだ、かといって全く無いのもどこかさびしいから不思議だ。
 これが日本食などをだそうものなら、日本人のたまり場になる。中国の大理にはいくつか日本食レストランがあり、多くの日本人がたむろしていたがそれは単に食事をとるといったことにとどまらず、会話や旅の情報交換が日本語でできることにも意味がある。
 英語をネイティブに話す人はこうした場所で旅行に必要な情報を手に入れる。彼等はおおむね母国語で旅行が可能だ。アジアはほとんど第一外国語が英語なので、英語を勉強している人は多い(たとえばタイ人の米国への留学生数は、日本への留学より2桁多いという)英字新聞も、英語ニュースもインターネットも、今や多くの場所で見ることができる。それに日本やベトナムなどにみられるように、英語を話す白人(アジア人、黒人ではない)には地元の人がこころなしかフレンドリーになるように思える。
▼メコン川に生える夕日(ルアンパパン)

昆明のドミで一緒だったオーストラリアの女性曰く「お金が無くなってきたので、中国で英語教師をしようと思う、友だちがいまやっていて、月3000ドルになる」というのだ。こんな、棚ぼたな話しがあっていいものだろうか。中国人の収入は月100ドルもないのである。


 確かに彼女は面白い女性で、もう長く旅を楽しんでいるし、同じような旅行者として親近感もあるが、一見同じようなバックパックを背負った旅行者であっても、与えられた条件は違う。やはり人間は生まれながらにして平等ではないのか。
 彼女は今回の旅行でバングラディッシュへ行くという、里親をしていてその子に会いに行くというのだ。彼女は見たところまだ20代後半である。昆明で会ったアンディーの親も里親をしているといっていたけれど、彼女の年齢で里親運動に参加しようというところが、日本ではまだめずらしい。
 それにしても、どうしてこんなにも、白人系欧米人(アイデンテティーとして、オーストラリアやニュージーランドを含む)の旅行者が多いのだろう。ルアンパパンに居た一週間、大きくはない町を毎日毎日歩き回った。ラオスは観光年で、古い家を増改築したり、新たに建てたりと町の至る所に宿がある。歩いていると「こいう宿もある」「こんな所にもある」と見つけるのだが、どこも白人系欧米人でいっぱいだ。
 クリスマス休暇で大挙して押し寄せてくるのは分かるが、ここはビーチではないのだ。宿はフル状態で、遅く着いた旅行者は開きを探すのに夜までかかる人もいる。
 ボクらの宿は宿泊客の定員30人程のところ、一週間の滞在で、日本人を含めアジア系の旅行者は一人も来なかった。皆、白人系欧米人だ。
 宿のオーナーに聞くと「オーストラリア人が一番多い」という。オーストラリアの人口は1800万というのに。
 ムアンシンで会ったドイツ人家族が同じ宿にやってきた。クリスマスということで、他の子供連れ旅行者と一緒に、宿を電飾で飾り、ロウソクを灯してお祝だ。小さい子供がいても平気で旅行をする。
 お年寄りの一人旅もいる。日本のように“老後はじゃま者、病院通い”よりはよっぽどいい。定年したオーストラリア人が言っていた
「旅行をしていた方が、安く上がるし、楽しいんだ」
日本人旅行者の多くは20代の若者だが、各世代に渡って旅行を楽しむ白人系欧米人は、若い人から子ども連れ、お年よりから車椅子の人まで、いろんな人が旅行を楽しんでいる。どうしてこんなに違うのだろうか


 
○托鉢

 


 
この町には80を越すお寺がある。お坊さんも多く、朝早くから托鉢が行われる。宿の近くでは朝6時半頃から80~90人のお坊さんが、一列になり歩き回る。壇家の人々だろう、朝早くから起きて、1時間程かかってお米を炊き、竹で作られたカゴなどに入れて、やってくるお坊さんを待つ。
 お坊さんが来るとひざをついた姿勢で、おひつのようなものへごはんを入れていく。ごはんはこの辺りの主食の餅米。おかずなどは別途届けたりするという。

▼ルアンパパン 托鉢の風景 皆サンダルを脱いでひざまずく

 

 朝もやの中でこういう風景を見ていると、観光客がきて荒らし回っていいのかなと思えてくる。もちろんそんなこと言ってたら、観光産業は育たない。この国はタイに輸出している電力と木材、布製品くらいしか大きな産業はない。でも節度をもって接しなければと思う。
 食事を提供する人が少なければお坊さんの食事の量は減るのだろうか。ご飯を提供するのはお年寄りが多い、聞くと若い人はまだ寝ていると言う。そういうもんだとも思った。
 ボクの生まれた四国では時々お遍路さんがやってきた。玄関でお経がすると、お米を持って玄関に出て、お坊さんの首から下げている布袋に入れる。それが当たり前だったし、周りの家々もそうしていた。でもいつ頃からか、そういうスタイルのお遍路さんは見かけなくなった。
 宿泊している宿の長女アンは看護学校の先生。ロシア語、フランス語、英語が話せる。言葉の変遷は時代を反映している。彼女は日本語も少し話す。日本で10カ月間勉強したことがあるという。日本滞在の時の写真をみせてもらった。
 彼女は日本が好きらしい。隣の国のタイ人は日本人をあまり好きではないらしいといった統計調査を見たことがあるが、彼女の期待を裏切りたくないものだ。

 


 

○タイヤチューブ   


 
国連ボランティアのエリさんによると、彼女やJICAの人はウドンサイ↓ルアンパパンは車で移動しなければならないらしい。理由は飛行機のメンテナンスが悪く危険だからというもの。
 ところが、ルアンパパン↓ビエンチャンは一転、飛行機で移動しなければならない、理由は途中、盗賊が年に1回ほどでてくるからというもの。(モンの反政府グループかも)
 めったにでないと分かっていても誰かには宝くじが当たる、と思うといい気持ちではない。でも、行かねばならないのだ。
 このコースは景色がいいはずだが、大型トラックが屋根付きの為に見晴らしが悪く、その上、中程の真ん中の席に座ったせいで、ほとんど景色を見ることが出来なかった。でも両側に人間の盾ができたともいえるが。心配をよそに7時間後にバンビエンに到着した。着いてみると、もう少しハプニングがあってもよかったかなと強気になる。
 バンビエンもこれまた何もない村。人口が少なく、たまに聞こえてくるカラオケ以外、村は静か。ゆったり流れる川と、その背後に広がる桂林に似た山々、そこにある数多くの洞穴。
▼川下り。ゆっくりで、本も読める。水は透明で、川底が見える。

 

 この川をタイヤチューブにお尻を沈めて下ってみた。トンボが肩に留まるほど、ゆったりとした流れに身をまかせ水面を漂いながら、魚や川海苔を採っている人や、遊びに夢中の子どもたち、草を食べる水牛などを見ていると、こんな世界があっていいものかと思えてくる。
 夕方になると子どもたちは、あるものは素っ裸になり川で遊び、大人は川で水浴びをする。女性が、一枚の布を体に巻き付け、長い髪を洗っている、静かな水面に波紋がたつ。夕日に照らされるそれらの風景を見ていると、スバラシイ世界に居るように思えてくる。
 お金はあっても、心の空虚さを抱える都会人が見ると、人生が変わるかも知れない。
 毎日真っ赤な太陽が沈むと、時を待たずして、大群の蝙蝠が渡り鳥のようなラインをひきながら、波のようにゆれながら山々から町に降りてくる、まるで黒いオーロラのようでもある。1km以上はありそうだ。蝙蝠は役鳥(?)で、ハエなどの虫を食べてくれるのでこの村の人々も助かっているに違いないが、マーケットでは串刺しにされ、焼かれた蝙蝠が売られているのをみると、食料としても役にたっているようだ。
 この町で韓国人のホンくんに会った。礼儀正しい若者で、日本についてよく質問してくるのは良く知っているからだろう。韓国の徴兵は26カ月だが彼は不適格で18カ月で済んだと喜んでいた。旅行が本当に楽しそうで、こういう人を見ているとこちらも楽しくなる。


 

○ビエンチャン


 バンビエンからビエンチャンまでバスで4時間。道路は舗装され、ピックアップトラックだけでなくバスも走っている。
 ビエンチャンに入ると渋滞とまではいかないまでも、今までの町と比べ物にならないほど車が増えた。その車が巻き上げる埃もたいしたもので、喉の弱いボクとしてはマスクなしでは町を歩けない。拝金主義もはびこっていて、これまでの町とはやはり違う。貧富の格差も大きいのだろう、立派な建物もあれば、物乞いの人も少しずついる。

 町を流れる川幅400m位だろうかメコン川の対岸はタイ。8年前対岸の岸辺からラオスを眺めて、アチラ側には何があるのだろうかと思ったことがあるが、今こちら側に立ってみると、その時のことがなつかしい。
 今日は大晦日。夕方、川辺に立ってみると、真っ赤な太陽がメコンを染め、釣り舟が4隻静かな川面に浮かんでいた。
 旅行者はテーブルに座り飲み物を飲みながら、夕日を眺めている。皆、何を思っているのだろうか。今日の終りは、一年の終り。日本に居たなら、歳末の売り出しも終り、ボーゼンと後かたずけをしているころだろう。こうしてここにいることがウソのよう。
 この一年、働いていた前半はともかく、後半はナマケモノとしかいえない旅行をしている、少なくとも社会で仕事を続けている人から見ると、そうとしか見えないだろう。短い旅行ならともかく長期の旅行だと始末が悪い。ボクより若い人からもよく長期旅行はこれで終りという声を聞く、がそういうもんだとも思う。ボクだってバンコックの安宿の有名な落書を知らない訳ではない。だったら何故旅行に行くのか?これは難しい。今日は考えないことにする。
 ただ、年とってからの長期旅行は思いの他プレッシャーがある。日本に帰るときびしい現実が待っている。なにからなにまで、いちからやりなおさねばならない気さえしてくる。
 大晦日ということで旅行者5人でインド料理を食べにいった。なぜインド料理なのかといえば、たまたまバイキングをやっていたからだけど、おいしかった。最後までおいしいものを食べられたのだから、来年もきっとおいしいものを食べれるだろう。
 突然、エミコさんに声をかけられた。彼女とは中国のダーリで会い、ベトナムへ行くと聞いたので、ホイアンのニーに伝言を頼んであった。こんな所で出会うとは。彼女は既に、ベトナム、カンボジア、タイと回ってラオスに来たという、元気だ。ボクらのスピードがいかに遅いかが分る。ベトナムのニーに頼んだメモも渡してくれたそうだ、謝謝。彼女たちと薬草サウナに行った。気にいったみたいでやけに喜んでいた。この後、西へ西へと向かい1年をめどに旅行を続けるという。20代の女性は元気だ。

 


 

グッバイ、ラオス

 

 ビエンチャンから、タイとのかけ橋までツクツクで約1時間。イミグレで簡単に出国の手続きを済ませ、専用バスでメコンを渡った。バスでの国境越えなので歩いて渡る時のような感動はイマイチだが、過ぎ去るラオスと近づくタイを感じるだけで楽しいものがある。しかも眼下にはメコン大河が流れているの。
 タイ側イミグレの手続きを済ませ、またツクツクに乗り約20分でノンカーイ市内へ。ラオスの旅も終わりました。旅行も終りに近づいてくると、ひとつひとつが大切に思えてくる。でも8カ月を過ぎ日本に帰りたいという気持ちが起こらないのはどうしてだろ。
 ここタイのノンカーイは8年程前に一度来た地。今は人気のマットミーGHのメコン川に面したベンチに座り、本を読んだり、手紙を書いたり楽しく過ごしたことがある。当時まだ見ぬラオスに思いを馳せながら、人の気配を感じ取ろうと耳をすませたり、目を凝らして対岸を見たりした。
 日本に帰り、メコン川に橋ができ、旅行者が自由に往来する話を聞くにつけ、ああ、行かねばと何度思ったことか。今、こうしてラオスからタイに入り、また再び同じ地に立って対岸のラオスを眺めてみると、この8年があっという間だった。
▼1998年大晦日 メコン川の夕日 対岸はタイ

 めずらしいことに、ラオスを悪くいう旅行者には出会わない。たしかに時間の流れがラオスは違った。グッバイ、ラオス。
 ノンカーイも建物を中心にきれいになり、以前に比べ人々の暮らしも豊かになったかに見える。
 8年前町を歩いていて、ひとりの女性に呼び止められた。娘が日本でウエイトレスをしていて、今ではこんな家を建ててくれたと、うれしそうに語ってくれたことがある。娘をとても誇らしく思っているようだった。その家は他と違ってコンクリ造りで、立派に見えたが、今ではそんな家はゴロゴロある。その辺りを歩いてみたけれど分からなかった。
 髪を切ってくれた散髪屋さんも綺麗な内装になり、よく通った5軒ほど並んだソムタム屋も綺麗になっていた。以前はそこにブンという少女が働いていて何度か通ったのだが。ケーキ屋さんだけは以前のそのままでとてもなつかしい。この店の年配の女性は日本語を話す。
 バンコクへの列車のチケットを買いに駅に行ったところ、ルアンパパンにいるはずのホンがいるではないか。聞くと歯痛で夜も寝られないのでバンコックで治療を受けて出直すという。それでも楽しそうにしている彼が不思議。バンコックで一緒に食事をすることを約束して別れた。
 バンビエンで会ったアキと再会、メコン川沿いのレストランで夕食をとりながら、対岸のラオスにもう一度、再見を言った。
 ベトナム、中国・雲南、ラオスこのエリアで残されたのはカンボジアだなと思いつつ、ノンカーイを後にバンコックに帰ってきた。

 

○旅の終り
 バンコクに戻り、ホンと、カオサン通りで韓国人バックパッカーのたまり場のレストランへ行く。
 メニューに“IMFセット”がある。IMFは今や安さの代名詞。ホンは歯の治療をし、相変らずニコニコと元気そう。そのお店は、お客全員が韓国人で置いている本やメニューも韓国語。
 女子学生に声をかけられ、韓国・水原の説明を上手い日本語で一方的に聞かされた。彼女は観光業を目指す大学生で、旅行をしつつ観光宣伝もしているそうだ。今度は別の学生達がきて、2002年ワールドカップのバッジを押しつけられた。貰ってもしかたないのだが、あまりにも真剣にすすめるので彼らの為に、胸にぶら下げた。韓国人は積極的で、韓国人らしからぬホンとはカレーを食べた。
 正月を日本で過ごしたサチコさんがまた舞い戻ってきた。この前会ったのは、ルアンパパン。彼女と旅行漫画家を目指す大久保くんたちと5人でタイスキを食べに行く。彼らとは中国でも火鍋を食べた仲。また、アキコとは日本食料理を食べに行く。彼女はいったん日本に帰り、インドに行く。インドの寝台列車に乗っていた時、列車転覆事故にあい、痛い目にあったにも関わらず懲りてない。次は無事に帰れるかどうか分からないが、楽しんできて欲しい。
 旅行中いろんな人と食事を楽しんだ。一体何人の人と食べただろうか。旅という共通の話題があり、社会のしがらみがない身の上、楽しくないはずはない。たとえ日本で会ったとしても食事などしなかった人たち。時には言い争いもしたが、充実した時間を過ごせた。

 

 

 ※薬草サウナ
 ラオス名物(?)薬草サウナってなんだろう。行った人に聞いてみると口々に気持ちいいよ~と言う。ヴイエンチャンの宿の近くにあると聞いて、まずは偵察に行ってみた。狭い路地の入り口に英語でサウナの看板。入ってみると建物の中庭のようなところに、小さな木造の小屋がいくつか。そのひとつ薬草を焚く小屋では、薪で大きな釜を熱している。釜のなかにはブレンドされた薬草がどっさり入っていて、釜の上部にとりつけてある煙突をとおして水蒸気がサウナの中に送られる仕組み。料金はサウナ2000キップ(50円)、マッサージ5000キップとある。午後1時から営業とのことで、サロン(体に巻く布)も借りられることを確認し、次の日、ヴァンビエン以来よく会うアキコさんを誘って、体験しに行く。

 行くとサロンを貸してくれ(男はなぜかムエタイ用のハデハデパンツ)建物の中の部屋で着替える。このサロン、筒状に縫ってあるものの、着なれないと、ずるっと落ちてしまいそう。中庭で、まずは水浴びして体を洗うように言われる。水が冷たい!その後、いよいよ1坪ほどの狭い木製の女性用小屋に入る。扉をあけたとたん、水蒸気でなんにも見えない。薄暗い小屋の中はベンチが壁にそって向かいあうように並べてある。あまり熱くないが、水蒸気が上がっているので、すぐに汗が吹きだす。部屋のすみからハーブの匂いと煙が伝わってくる。強い匂いなのだが、不思議と気にならない。体の中からじわじわ温まり、たまっていた毒素が少しづつ毛穴から排出されているようなかんじ。冷え性にはききそうだ。


 ひとしきり入って一旦外へ。中で炊いているのと同じ薬草のお茶を頂き、外のベンチに腰掛け一休み。どうやらサウナは一種の社交場のようだ。出入りしながらおしゃべりを楽しみ、外では軽石で体をこすったり、顔にミルクをぬって手入れしたりと、のんびり時間を過ごしている。男女を問わず、いろんな年齢の人が利用しているのも面白い。日本の温泉のようなものかも。観光客用じゃないのもいい。
 私達も入ってあったまり、出ては外でお茶を飲み、を数回繰り返し、最後に水を浴びてしめくくる。これで2000キップは安い。薬草の匂いはその後何日も消えず、それも効果のうちかもしれない。(byハク)